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| イラストAI direction by M.K |
私の祖母は、明治23年生まれの寅年。わたしが小学校6年のときに74歳で亡くなりました。
私の明治時代との接点は、この祖母との12年間です。明治は遠くなりにけりでもない。
お寺の子
この祖母、生まれは東京神田区山本町。今の秋葉原UDXのあたりです。
なぜか幼少時は北海道で過ごしています。祖母の父の名は、貫瑞。祖母は、お寺の子だったようです。だから祖母は、4つ足は食べませんでした。すき焼きの隣に焼魚が並んでいました。牛乳も飲みません。牛乳が苦手な小さい私には、とても羨ましく思えました。
祖母は、鈴蘭が好きで庭によく植えていました。母が『おばあちゃんは北海道にいたから鈴蘭が好きなのよ。』と言っていました。祖母は、あまり自分のことは語リませんでした。でも物差しを私の背中に挿しては、『猫背になる。近眼になる』と言って諭しました。
寿限無
晩年ラジオの落語をよく聴いていました。文楽師匠のファンでした。高座に座ってる師匠のこじんまりとした一本筋のはいった姿に、縁側に座ってる祖母を思い出しました。
祖母は私の小学校6年の4月29日昭和天皇の誕生日に老衰で亡くなりました。その年の謝恩会で、私は、寿限無をやりました。今でも寿限無の長い名前は、いうことができます。今思えば、小学校6年生のおばあちゃん追善のつもりだったのかもしれません。
オムツの謎
姑としての祖母は勇ましかったようです。祖母は助産師としても働いていたことがあり、看護師の母との接点がありました。二人は当時流行したらしい赤ちゃんの足をまっすぐにしてオムツを巻くという方法に取り組んだようです。お陰で私たち姉妹は2人とも股関節形成不全になった。私は長いこと祖母たちのオムツの巻き方のせいだと思っていました。
火事場の江戸っ子
祖母は、火事のさわぎがあると下駄を引っかけて真っ先に飛んでゆきました。
近くの火事では、箪笥を担いで庭に持ち出したという武勇伝がまことしやかに家族の中で伝わっていました。
墓誌は、マリア
仏教徒の祖母は、母の宗教には、何も言いませんでした。私の小学校も仏教系とキリスト教系をじぶんで見に行って選んだ。と聞きました。母にしてみれば地獄に仏だったかもしれません。
今の私には、そんな江戸っ子の新しもの好きにも思えます。
母は祖母によく仕えました。その甲斐あってか祖母の墓誌は、戒名でなくマリアになっています。「thank you. 嫁!」ということでしょうか。江戸っ子は、潔い。
嫁姑
祖母は、よく近くの長女の家に遊びに行って麻雀を楽しんだり、歌舞伎を見物に行っていました。『私は、いつも赤ちゃんをおぶわされて留守番だった。』と若い母親は、悔しかったらしい。当時母が背中に背負っていたのは、私。母は、晩年になってしみじみとそのことを私に話してくれました。嫁姑の関係にあまり悩まなかった核家族世代の私には、遠い話しに聞こえました。
明治の女
昭和30年代後半は、高度成長期の入り口で父は神戸に単身赴任していました。
祖母、母、小姑、二人のやんちゃ姉妹の生活の中心をささえたのは、祖母だったような気がします。何も言わないがそこにいるだけで留守番の家族は、まとまっていることができました。
祖母が私に最後に残したものは、看取りの家族の温かい時間と命が消えてゆく静かさと亡くなったときの祖母の手の凍りつくような冷たさです。
祖母の物語が、私の記憶の中に生きていることを思うと明治は、遠くないと思う。
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おばあ様と密度の濃い時間を過ごされたのですね。拝見しながら、私も明治生まれの祖母のことをあれやこれやと思い出していました。母の母で明治の職業婦人。NHKドラマ風薫るの時代に看護人になった、立派なできた人だと、親戚の者たちがよく言ってました。
返信削除神田和泉町に住んでいた?ので、お墓が浅草にあります。私の小学生時代は、母が教員をしていたので、祖母が母親代わりに食の面倒や遠足の付き添い、保護者会に来てくれて、目立っていました。
私の中にも祖母の記憶が強くあり、明治は遠くなく、おばあさんはまだ生きてます。共感しました。