道楽です!と言いたいところですが、もとも
との動機は「度胸をつけること」にありました。お茶のお稽古とあわせて、謡いのお稽古は、人前に立つ経験を積むことに大変役立ちました。 家では受験生を二人抱え、遠方の父は終活の時期。
夫は「タンスにゴン 亭主元気で留守がいい」の時代。思い出すことは、前後不覚です。
更年期など感じる暇もなく、目まぐるしい50代を過ごしました。
思いきって始めた茶の湯と、その後のおばあ様方との謡の時間は、まるで「あの世」のように静かな世界でした。
この時、気分転換というもののありがたさを知りました。
二人目の師匠についてそろそろ十年。
今年の発表会では「江口」のワキを勤めます。
謡曲「江口」
平安時代末期、世は平氏の時代に移ろうとしていました。
北面の武士だった西行は、武士と家族を捨て、歌人として生きる道を選びます。
西行は、当時、天皇や公家たちの遊興の地だった大阪・江口を訪れます。
一宿一飯を求めて宿を訪ねますが、主人である遊女・江口の君は、門前払いをします。
相手が、あの西行法師だと知りながら。
「あの有名な西行を遊女が拒む」という昔話が、この物語の前提になっています。
作者は観阿弥とも、世阿弥とも、金春禪竹とも言われています。
江口の君の幽霊はこう謡います。
『僧侶になったからといって許されると思うな。』
俗世の迷いの世界にも仏はいるのだと諭し、
江口の君はやがて白象に乗り、普賢菩薩の姿となって天へ帰っていきます。
この曲は、長く故人の追善に謡われてきました。
西行という有名人を使いながら、
現代なら「社会的弱者」と呼ばれる存在に光を当てる物語でもあると思います。
公平・不公平、正義・悪 強者・弱者・・・・。
そうした言葉の陰に潜む人間の欲を突いているからこそ、
この物語は長く人の心に刺さってきたのでしょう。
能楽を保護した武家文化の担い手たちは、
戦で死ぬ者の救いを常に求めていたのではないかと思います。
それは、殺めた自分自身の救いでもあったのでしょう。
「だったら戦などしなければいい。」
そう思います。
けれど人間は繰り返してしまう。
だからこそ、歌い、思い出し、自分を諫めるしかないのです。
ワキ役は、諸国一見の僧侶であり、
同時に西行の胸中を映す存在でもあります。
ワキ役がいなければ、この物語は成り立ちません。
普段のお稽古は、ここまで深く考えることなく通り過ぎてしまいます。
発表会という場があるからこそ、私は、物語の奥行きを考えることができるようです。
謡い継がれてきた物語の中には、
その時代を担った為政者や権力者の倫理観が生きているように思えます。
なかなか良い文化です。
そう思うと、やめられません。
どこまでも優しい文化なのです。
歌枕 江口の里
東大阪を走る今里筋線「瑞光4丁目」駅から徒歩20分、 淀川右岸にむかいました。ブラタモリ気取りで、道筋、Y字路、坂道などを気にしながら花霞の河畔にたどりつきました。
平安時代の昔からこの辺りは、大阪・京都・西国への海上交通の要所として栄えたようです。西行法師は、遊女妙の歌のやりとりをします。寂光寺は、この妙が鎌倉時代に開山したといわれます。普賢菩薩、観世音菩薩が祀られ、江口の君堂ともいわれてきました。
牡丹の花が咲く雅びた寂光寺の境内に入ると立て札に謡曲「江口」のことが書かれていました。人けのないことをいいことに謡ってみました。
世の中を厭うまでこそ難からめ、仮の宿りを惜しむ君かな
西行
(出家せよとの頼みが、むずかしいことはわかる。雨宿りの一夜の宿の頼みぐらいは、と思うがだめなの?) 西行
寂光寺から川を望む土手にでました。川の流れと風景は、往時の面影を残すものではありませんが、謡曲「江口」の1節があります。その言葉がとてもしっくりくる景色が広がっていました。
月澄み渡る川水に、遊女の謡う舟遊び、月に見えたる不思議さよ。「江口」より
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