ファミリー・ヒストリー 1

 

カトリック戸塚教会と結婚

ある日のカトリック戸塚教会
  親の結婚について、私たちはどれほど知っているでしょうか。
父・大六と母・スエが結婚式を挙げた教会のことではありません。 母が結婚を決めるきっかけとなった教会の話です。私がその存在を知ったのは、介護退職して東京に戻ってからでした。 まだまだ元気だった85歳の母は、幼い頃の暮らし、家族のこと、初恋、葬式、銀行手続きまで、実によく話してくれました。父の話題が少なかったのが、かえって可愛く思えました。

 復興にはほど遠かった昭和25年頃の東京の話です。 「多摩川の下流、蒲田あたりから銀座の繁華な光が見えました」 これは、私のアルバイト先のデイケアに通っていた90代のおばあちゃんの言葉です。おそらく焼け跡世代、彼女は、当時10代だったのでしょう。母は看護師として厚木の病院に勤め、終戦時は20歳でした。 父は長男で、外地従軍は免れたものの、老齢の両親と未婚の妹を抱えた28歳。GHQによる財政再建の影響を受ける会社員でした。やりたいことをやればいい、好きなことができる――そんな時代ではありませんでした。 明治以降の価値観は敗戦で崩れたが、若い男女は「ともかく働き、ともかく結婚する」時代を生きていました。
 二人の結婚のきっかけは、父の妹でした。 病弱な舅、明治生まれの江戸っ子の姑、そして小姑との同居が前提となれば、母の家族が反対するのも無理はありません。日露戦争に従軍した母の父、屋号「カミナリ」は、最後までこの結婚を許さなかったといいます。 とはいえ、七人兄弟の末っ子だった母は、男友達と野山を駆け回る少女時代を送りながら、父の諫めを受け止め、結婚に踏み切ったようです。「最後まで父は、怒って家にきてくれることはなかった」とは、母の言葉。社会的にも成人男性の数が少なく、選択肢が限られていた時代でもありました。今の個人尊重の結婚観からすれば、考えられない生活環境です。 介護を前提とした結婚。だが、同じような選択を、あの時代の多くの女性がしていました。
マリア像
 病気の舅は、今でいう脳血管障害による片麻痺。当時は「卒中」「よいよい」と呼ばれています。 介護制度も訪問看護もなく、ケアはすべて家族、主に女性と子どもが担う時代でした。姑は明治生まれの神田育ち。北海道開拓団とともに渡った寺の娘だったとも聞きましたが、詳しいことはわかりません。ただ戸籍には神田区山本町とありました。今の秋葉原駅前です。彼女は当時の助産師でもありました。看護師と助産師の免許を持つ母スエは、舅にとってまさに「千人力の嫁」でした。 父大六は家庭を三人の女性に任せ、復興日本の企業戦士となっていきました。
 

 
 母が結婚の挨拶で父の家を訪ねた帰り、この教会の存在に気づいたといいます。 「背中を押されたような気がした」 母はそう語っていました。「あの教会を見なかったら結婚していたかどうかわかない」とも。敗戦直後、母は東京の病院に職を求めていました。 縁あって就職した病院の上司が熱心なカトリック信者でした。上司が信徒会長を務めた教会で母は洗礼を受けました。人のために自分を犠牲にすることをいとわない宗教観は、看護の仕事を支え、生活の支えにもなりました。 結婚後の暮らしが厳しかったであろうことは、想像に難くありません。

 カトリック戸塚教会は、今も戸塚駅近くの小高い丘の上にあります。 周辺にはバプティスト教会や天理教の施設も並ぶ。いつでも開かれている教会に入ると、女性らしい細やかな気配りが感じられました。 女性たちが宣教師の活動を支え続けてきた歴史が、空気の中に残っています。敗戦直後、多くの適齢期の女性たちは、母と同じように、自分を支える「何か」を強く求めていたのではないでしょうか。
 敗戦でおこった既成価値観の崩壊は、若者たちに「ほんとうの自分」と向き合うことを強いました。 宗教二世の私は、母もまた、必死に生きていたのだと思います。当時の人々の出会いと覚悟の積み重ねが、高度成長期の日本の繁栄を支えたのはご存知の通りです。 そう考えると、その後の日本の若者たちは、何を積み重ねてきたのでしょうか。「ほんとうの自分」と向き合わざるをえないほど追い込まれないこと。 そこにある幸せと、不幸せ。
 きっと、どの家庭にも、語られていない物語があるのだと思います。 この文章が、誰かにとって、自分の家族を思い出すきっかけになれば幸いです。





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